
今治城は日本3大海城(うみしろ)の一つ。堀には海水が引かれ、今治が海とともに歩んできたことを実感。
いつから、そしてなぜ、
今治は海事都市になったのか
今治市は日本最大といわれる海事都市です。
海事都市とは、海運業・造船業・舶用工業といった海事産業が集まった都市のこと。今治市にはたくさんの造船所、船のシステムやクレーンなどを製造する舶用(はくよう)の会社、船を所有する海運会社などが集積しています。
今治市はいつ頃から、どのように海事都市になったのでしょう?そもそも、ぐるりと海に囲まれた島国日本にあって、なぜ特に今治でこれほど海事産業が栄えたのでしょう?
謎を解き明かすため、今治市役所の海事都市推進室を訪れお話を伺いました。

今治市役所前の通り沿い(今治市公会堂横)には、海事都市の象徴ともいえる船のプロペラのモニュメントが。
「今治市が海事都市として知られるようになったのは2005年。12市町村が大合併して新たな今治市になった年です。造船・舶用工業が中心だった旧今治市と海運会社がたくさん集まる波方町・伯方町などが一つの自治体になり、日本最大の海事都市が誕生しました」と今治市役所の中内さん。造船業では14事業所(2021年2月現在)が今治に集まっており、これは日本一の集積数を誇ります。また、外航海運においては、なんと日本の外航船の40%超を今治の船主が所有しており、北欧・香港・ギリシャと並び『世界の四大船主』と呼ばれているとか!1万人を超える今治の人々が海事産業の分野に従事しているそうで、今治市が日本最大の海事都市だというのもうなずけますよね!

造船の町として知られる波止浜にはかつて塩田が広がっていました。(写真は昭和40年頃の波止浜の塩田跡)
海運・造船が発達したのは
運びたいものがあったから
では、今治市にたくさんの海事産業の会社が集まるのはなぜ?
答えは今治各地の歴史的な特産物にありました。
「江戸時代には波止浜で塩作りが始まります。安くて品質が良い波止浜の塩は全国で大評判になり、出来上がった塩の輸送はもちろん、塩を煮詰める燃料の薪の搬入にも船が使われました。また、今治で忘れてはならないのが菊間瓦 (→まじめ図鑑 File20「菊間瓦」) 。瓦をつくる粘土、完成した瓦、瓦を焼くときに出る燃えカス、それらの輸送にも船が必要不可欠でした。そのため、この地域で海運が発展していったのです」。

なるほど、地域の産業と結びついて、船が欠かせない存在になっていったのですね!
「それらを運ぶ海運業が発達すると、船の修理や建造が必要になります。今治の造船業の発祥地といわれているのが、波止浜地区にある波止浜湾。当時の船は潮や風の影響を大きく受けるために、潮待ち・風待ちの港は重要な場所でした。波止浜湾もそんな港の一つ。箱のような形の深い入江で、来島海峡の渦巻く急潮を避けられる良港だったのです。立ち寄った船が潮や風を待つ間に船舶の修繕を行ったことから、造船業が発達していったともいわれています」。

2009年にスタートしたバリシップは、回を増すごとに規模が拡大しています。
日本最大の海事都市としての
プライドがここに集結!
そして現在、日本最大の海事都市となった今治市が特に力を入れているのが「バリシップ」と「今治地域造船技術センター」です。
「バリシップ」は今治市で開催される西日本最大の国際海事展。世界中の海事産業の関係者が集まり、ビジネスの輪を広げる場です。今治市が世界屈指の海事都市として注目され、存在感を示しています。
「今治地域造船技術センター」では、造船・舶用の新入社員への研修を行ったり、中堅社員に向けて溶接・船殻(せんこく:船の外郭や骨格)組立などの高度な技能を伝承したりと、技術を次世代へつなぐ大切な役割を担っています。地域の歴史とともに日本最大の海事都市に育った今治。先人が積み上げてきたものをさらに発展させるべく、さまざまな活動を精力的に行っているのですね。
造船古材がこんなに素敵な家具に

足場板についたキズ一つひとつが職人さんのために働いた印
船を作る際に使われる足場板は、一隻につき約1万枚といわれ、船の完成と同時に役目を終えます。
この足場板をオリジナルの家具として再生するプロジェクトが、2020年6月にスタートしました。プロジェクト名は「瀬戸内造船家具」。「浅川造船」(今治市)が古材を提供し、「ConTenna(コンテナ)」(伊予市)が家具を製造販売、「株式会社オズマピーアール」(東京都)がプロデュースを担います。
「ただもったいないから再利用するのではなく、板の魅力を活かしたプロダクトを作りたいと思ったのです」と「ConTenna」の代表・吉野さん。雨風にさらされた風合い、飛び散った火の粉の跡も唯一無二の個性。造船所の仕事を支えてきた足場板が、生活を彩る素敵な家具に生まれ変わりました!
(2021年3月)
